鶴見線を歩くⅡ 2004年7月17日・18日~2004年9月19日 2002年3月2日
航空写真というのは、面白いものでまず自分の家が何処にあるのかを、真っ先に見つけようとしますね。自宅は4000 分の1 では、まるでケシ粒のような小ささですので探すのに苦労します。見つけた時には思いの外、む・ふ・ふ・って充足感が有りますね。マンションにお住みの方の方は、標的が大きいのですぐ見つけられます。でも、「ウォーリーを探せ」みたいなパズル的な面白さには乏しいかもしれません。でも、マンションに住んでいると違う面白さ(楽しみ方?)が有ります。
眺望が良いという利点を生かし、窓の外の景色、特に遠方の景色を写真に撮ったり、望遠鏡で眺めて、そこで見つけた不思議なもの、良く分からないものを、現地に探しに行くという趣味です。
私の友達は、2500 分の1 の白地図を買って来て、遠景の不思議なものを探訪し解明したら、そこに赤マークを付け、日時と対象物の名称を入れます。本当は常時大きなテーブルの上に広げ、ピンを刺していって、征服した地点を示したいそうです。
「南西、7時40分の方向。3km。制覇!」と叫びます。あっ、彼は北海道にいたころから「丸」*1 を購読し続けて居る根っからの右翼人です。本人は否定していますが。
で、そんな防衛問題を考えつつ、今回の航空写真は灯台です。
これが観音崎灯台です。「20 灯台」で紹介しました。結構、上からみても魅力的です。近くに防衛施設があります。
鶴見線を歩くⅡ 観音崎上空(パスコより)
鶴見線を歩くⅡ 東京湾海上交通センター 2000年1月14日
鶴見線を歩くⅡ 観音崎燈台 戦争遺跡の専門家、グリコ隊長 2000年1月14日
次は剣崎灯台です。電波塔の脇に変なベトンの構築物も見えます。また、見崎の近くの金田の畑に高射砲の丸い台座跡があった筈です。 以前、釣りに松輪港に行っていた時に良く見かけました。
前回の調査の時は、この高射砲跡地に行くことができず残念なことをしました。この次は必ず!
鶴見線を歩くⅡ 剣崎上空(パスコより) 赤の矢印は補助燈台を指す
鶴見線を歩くⅡ 剣崎燈台 ライ隊員も興味津々 2004年6月27日
鶴見線を歩くⅡ 剣崎補助燈台 鳶の巣でした 2004年6月27日
前振りがまた長かったけど、今回も鶴見線の続きです。
国道駅: 国道駅は、駅の入り口が第一国道に面しているため、そう名付けられたと聞きますが、由来は味も素っ気もありません。駅そのものは趣き深いもので、グリコ隊長、cacco
ペアが前に探訪しています。
横浜市の情報誌「横浜」*2 との対比をいくつか見てみましょう。
流石に1975 年の白黒写真は昭和中期のサラリーマンの哀愁が漂う、そんな感じです。1988 年の時代には、今よりも生活臭が感じられますが、平成の時代でもあまり変わっていないなあ。
流石にこの床屋さんは時代の流れか、近所にマンション群が立ち並んでくると、こんな構えの店では商売にならないのかもしれない。なお、鶴見駅、国道駅は「66 国道駅」で詳述しています。
鶴見線を歩くⅡ 鶴見線上空(パスコより)
鶴見線を歩くⅡ 国道駅入口を望む 1975年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 国道駅 ほぼ同構図で 2000 年4月1日
鶴見線を歩くⅡ 国道駅出口を望む 1988 年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 国道駅 ほぼ同構図で 2000 年4月1日
鶴見線を歩くⅡ 国道駅鶴見川側の理髪店 1988 年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 国道駅 ほぼ同構図で 2000 年4月1日
鶴見線を歩くⅡ 国道駅正面 2000 年4月1日
鶴見線を歩くⅡ 国道駅の芸術的な屋根のフレーム 2000 年4月1日
鶴見線を歩くⅡ 国道駅構内 2000 年4月1日
鶴見川を渡る鉄橋は、昔から絵になるらしく、写真もいろいろ残っています。うさおも夏から秋にかけて、この辺りではぜ釣りを楽しみました。1975 年。この頃は船宿の辺りは、まだ堤防が完備されていない時で、電車が本当に絵になるアーチ橋の上を通っています。
鶴見線を歩くⅡ 鶴見線アーチ橋梁を望む 1975年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 鶴見線アーチ橋梁を望む 1982 年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 1985 年ともなると鉄橋が味気なく変わっています。 1985 年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 今では護岸が整備されました 2004年9月19日
1975 年の写真の電車は、今では流石に鶴見線でも走っていないクモハ12 形*3 の茶色の車両です。少し前は、101 系の車両でしたが、今の主流は103系の黄色の車両が多く、それに山手線のお下がりの205 系のステンレス車両がちらほらしています。
今の鶴見川は護岸工事も完備し、川沿いに遊歩道(堤防の上と川岸にあり、川岸は結構釣りをする人で賑わっている)があり、干潟も河底も現れてこない。この近くのマンションに暮らしていたときに、この堤防が無かったおかげで、台風の直撃後、鶴見川が氾濫し駐車場の車のタイヤの高さまで冠水をしたことがありました。情緒は薄れましたが綺麗になったものです。
鶴見小野駅: さて、「鶴見小野駅」は、「国道駅」からほんの数分で到着します。2~3回、線路がくねると「鶴見小野」です。ここは最近ベッドタウン化しており、
cacco の友人もこの辺に住んでいます。乗り降りする乗客数もこの駅までは多いです。ここのホームは、戦前からのもので対向式のホームですが、駅構内で
上り線と下り線の行き来は出来ません。反対のホームに行くには駅を出て、踏切を渡る必要があります。
鶴見線を歩くⅡ 鶴見小野駅 相対式ホームです 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 鶴見小野駅の改札 2004年7月18日
パチンコ屋、電柱の看板は今も昔も変わっていないように思えます。
「鶴見小野駅」は、かつての大地主、小野信行氏の名前から採ったものだそうですが、この人がどのような人であったかは判りません。でも、小野弁財天神社が商店街の中ほどにあり、そこに石像が建っています。駅の近くに鶴見工業高校があります。私の県立鶴見高校は丘の上にあったので、「上の鶴高」と呼び、この高校を「下の鶴高」と呼んでいました。
この駅の南側は横浜市が力を入れるテクノクラートのエリアです。先端技術的な企業を優先的に誘致し、横浜市立大学の大学院総合理学研究科があります。また、ここには、東京ガスの環境エネルギー館がありますが、交通に不便なところで、どのような人が来るのかは不明です。
余談ですが、大井にある船の博物館も、誰が行くんだろうと思ってます・・・。行きましたが。
鶴見線を歩くⅡ 鶴見小野駅前通り 1978年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 鶴見小野駅前通り 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 小野辯財天 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 小野辯財天 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 小野信行氏石像 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 鶴見小野駅・弁天町間高架橋 1975年
弁天橋駅: 「弁天橋駅」の辺りまでが海岸線で、明治の前から漁師町でした。漁師の守り神として弁天神が御祭りしてあり赤い橋が架かっていたそうです。浪漫ですねえ。
でも、埋め立てられ旭硝子などの工場が誘地されると、弁天様は生麦に遷されました。残念! でも、駅名は、この弁天橋に由来しています。
鶴見線を歩くⅡ 弁天橋駅改札 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 弁天橋駅舎 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 弁天橋駅ホーム 2004年7月18日
浅野駅: さて、工場群の中にある「浅野駅」は京浜地帯の埋め立ての功労者、勿論、浅野総一郎の名から来ています。前回の補足を少し。浅野学園はコンクリート工法の講習所として開設されたもので、氏のコンクリートの普及に対する思いは強いものがあったようです。
しかし、この「浅野駅」の駅名の看板は、大変、見難いものです。実際はそうでもないのですが、写真にとってしまうと空の明るさの中に溶け込んでしまいます。また、現地では屋根の上にあるとは思わないので探してしまうことと、変にモダンな横桟が邪魔をしてそれが駅名だと気づかせないことです。
この辺はtomy’Jr さんのデザイナーのいない風景論にも繋がるところです。矢澤さんとお二人の「浅野駅名顕在化計画」のプロポーザルを期待するうさおです。
駅の前が芝浦の運河で釣りをしている人たちが多く、長閑な感じですがこの敷地は東芝の持ち物です。
鶴見線を歩くⅡ 浅野駅 2004年7月18日

鶴見線を歩くⅡ 浅野駅入口 1978年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ 浅野駅ホーム 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 浅野駅 分岐線 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 浅野駅のガーダー橋 使われているのか 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 浅野駅ホーム端より 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ caccoとライ隊員 103系電車を見送る 海芝浦行 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 浅野駅前運河 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 海芝浦と扇町の分岐線 2004年7月18日
安善駅: この「浅野駅]で鶴見線は、「海芝浦駅」と「扇町駅」に別れます。「海芝浦」は殆ど東芝の社員さんですが、朝夕以外の昼間の乗客数は「扇町」のほうが多いです。
それぞれにホームが分かれていますが、かつて併走する京濱電気鉄道に属する海岸電軌線(総持寺~潮田~池上~川崎大師を結ぶ1.37km)を1930年に合併しましたので、その時の2線の名残りのホームかも知れませんね。そう思うと趣き深いぞ!
鶴見線を歩くⅡ 安善駅舎 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 夕暮れの鉄塔 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ お母さん、ここからホームに行けますよ。ふ、ふ、ふ。 2004年7月18日
「安善(あんぜん)駅」は、埋め立て工事の功労者浅野総一郎の絶大な資金援助者であった、安田銀行の創始者である安田善次郎の名前に由来しています。読み方は「あんぜん」ではなく、普通、「やすぜん」だろうがよっ!て思うのは、うさおだけだろうか?それでは最近の小洒落た割烹みたいになっちゃうか?
地元に住まわれていて、特に卒業生の方がいたら申し訳ありませんが、ここに寛政高校と言うのがありましたが、中学、高校の時には不良の学校と言うことで恐れられていました。米軍の施設もこの近くにあったことが、そのような風説を生んだのかもしれませんが、私たちには足を踏み入れてはいけない結界の地でした。と言う訳で今回初めてこの駅を見たように思います。
本当に駅前に洋風なと言うべきか、和洋折衷と言うべきか、レトロっぽい郵便局と煙草屋があります。レリーフが小洒落ていて、GI*4 好みです。終戦直後にでも建てられたのでしょうか?
鶴見線を歩くⅡ 郵便局と煙草屋 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 郵便局と煙草屋 1975年 横濱より
鶴見線を歩くⅡ タバコ屋の屋根飾り 鷲か?聖火か? 2004年7月18日
足元の警笛釦
武蔵白石駅: 「武蔵白石駅」は、日本鋼管の社長だった白石元次郎に由来しています。前号で述べました、「浅野造船所」「浅野製鉄所」が「日本鋼管」になったのですから、やはり浅野総一郎氏が関係している人脈と言えます。この辺りは仕舞屋(しもたや)もあるのですが、殆ど工場です。この駅の造りを見て、cacco
が大きな公衆便所って感じだなあ・・・って呟いていました。上手い。
(あっ、この辺りにお住まいの方、寛政町も含めて重ね重ねごめんなさい。)
鶴見線を歩くⅡ 1982 年武蔵白石駅付近
鶴見線を歩くⅡ 武蔵白石駅舎 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 武蔵白石駅改札 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 武蔵白石駅にある企業専用踏切 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 地域の地図看板 2004年7月18日
鶴見線を歩くⅡ 武蔵白石駅周辺 閑散の一言 2004年7月18日
さて、駅名は東北本線に白石駅(しろいし)があるため、武蔵白石とされました。因みに京浜地区の駅名は、この「武蔵」と付けるのが大変上手いです。
(To be continued next Issue!)
注:
*1:「丸」知る人ぞ知る、軍事雑誌。大東亜(太平洋)戦争の時代の兵器の解説から、近代の自衛隊や米軍の兵器の解説、貴重な写真(?)や資料が満載の何やらキッチュなもの。
*2:「横浜」横浜市が作っていた市政情報誌で季刊であった。B4 変形サイズで2003 年に廃刊後「横濱」としてA4 サイズで再出発した。字面は新しい誌の方が古いが、古い誌の内容のほうがノスタルジックである。新「横濱」はそんなもの、かけらも無い。
*3:「クモハ」鉄ちゃんならご存知のこの符牒。「ク」はくっ付け制御車、「モ」はモーターカー、「ハ」は昔、一等車を「イ」、二等車を「ロ」、三等車(普通)を「ハ」と呼んでいた。今、「イ」はありません。従って、意味は運転制御ありのモーター車で普通席車両という訳です。「モハ」は制御車無しのもの、「サハ」は牽引(カム)車の普通で「サ」は差込の意味、「モハ」の間にあるということですね。
(うさおは鉄ちゃんではありません!)
前回の鉄ちゃんチェックリストにあった、クラクションの代わりにアクセルを踏み込むとありましたが、それはこのこと。電車の警笛は足のレバーを踏みます。吹鳴(すいめい)三声とか言います。
鶴見線を歩くⅡ 運転席の足元にある警笛釦 2004年9月19日
*4:「GI」はアメリカ兵を意味する言葉ですが、1930 年代に、軍から支給品にGeneral Issue (官給品)と言う文字が刻印されていたのと、奴とか男を指すJoe という言葉を組み合わせて、陸軍刊行の週刊誌Yank に掲載されたGI Joe という漫画(Dave Berger 中尉作)のキャラクターから、米兵の代名詞となりました。
参考文献
「横浜」 横浜市情報誌 1975 年14 号 横浜もののはじめ 鶴見線物語
「横浜」 横浜市情報誌 1978 年26 号 駅を考える
「横浜」 横浜市情報誌 1982 年42 号 横浜の鉄道
「横浜」 横浜市情報誌 1985 年51 号 新・鶴見川図誌
「横浜」 横浜市情報誌 1988 年62 号 地図で見る横浜
「横浜」 横浜市情報誌 1988 年65 号 昭和・横浜のロマン
「それいけトマソン隊」 002 水道編
「それいけトマソン隊」 004 廃駅編
「それいけトマソン隊」 010 その後編
「それいけトマソン隊」 013 入江川編
「それいけトマソン隊」 014 入江川編
「それいけトマソン隊」 020 灯台編